家庭裁判所における男の惨状を目の当たりにし、もはや弱者とも言える現代の男たちをどうにか勇気づけて行くことは出来ないかという発想で立ち上げたサイトです。自衛隊の離婚案件を骨身を削ってクローズしてゆく中で獲得した離婚の妙技なるものも,もしかして御堪能して頂けるかもしれません。
一度は訪れて下さい。お待ちしております!
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女性だけではなく、男も35歳も過ぎると途端に死を待つ病人のようになってしまうのが世の常であります。若い頃は若僧と呼ばれ、歳を取ったらオジさんと罵られてしまう。一体、私のちょうど良い年齢って何歳だったんだろうと思う時がありますが、一度たりとてその答えに巡り合ったことがありません。
最近、後期教育で初めて訪れた朝霞駐屯地に用がありいつの間にかファミマが入っていたPXの前を通りました。かつてその入り口付近には深田恭子のガーナミルクチョコレートの巨大なポスターがあり、そこには古代の御神託のように「子供って言われてムカッ、大人って言われてドキッ。私にはガーナがある。」と書かれていました。あの頃私は、24歳だったんですが、同期は殆ど18歳だったのでもちろん扱いとしてはオジさんでした。後期教育のクライマックスの障害走で死ぬ思いで完走し爽快な気分に浸りきっている私に、隣の班の班長が肩に手を掛けながら言ったことは、「苦しむ顔が老けていたぞ。」でした。一瞬耳を疑いましたが、確かにそう言ったんです。あの時私は若かったのでしょうか。それとも、隣の班の班長が言う通り、老けていたのでしょうか。その答えが見つかりません。
さらに遡って、こんなことがありました。神奈川県にある相模大野という駅に伊勢丹が出来た時の話です。なけなしの1万円を持って自転車で国道17号を駆け上り、逃げ帰るようにポールスミスのピンクのボタンダウンシャツを買って家に帰ったことがありました。これ見よがしに夕飯にそのシャツを着て席に着いた途端、ご飯をよそいながら母親がこう言ったのです。「そういうシャツを着るのは高校生までじゃない?弟にあげなさいね。」と。私は耳を疑いましたが、母親は確かにそう言ったんです。確かに、ピンクは冒険しすぎだとも思っていたのですぐに反論することは出来なかったのですが、肝心なことはその時私がまだ成人にも満たない19歳だったということです。思えば漸く猛威を振るったニキビが終焉してクレアラシルを付けずに外出できるようになり、「さぁこれからオレの青春は始まるんだ!」という意思の表明がそのピンクのボタンダウンシャツだったのかどうかはわかりませんが、兎に角、継母とかではない実の母親が私の意思表明を無残に踏みにじったことは間違いのないことでした。あの時の私は若かったのでしょうか、それとも老けていたのでしょうか?その答えが見つかりません。
そんな私も先月で41歳になりました。ちょっと前に35歳になったばかりのような気がするのに、もう40代になっています。クレアラシルをつけないで外出できるようになってからは20年以上、コンビニでグラビアを立ち読みしながら「マジかよ。〜差かぁ。」と呟くことがなくなってから10年以上経ちました。歳を気にしないで生きることは、歳を取ること即ち死に近づくことであることからして、決して逃れられないことかもしれません。「オレももう年だな。」「いや、まだまだ若いさ。」なんてことを繰り返しながらゆっくりと死に近付いているのでしょう。恐らくは、若僧でもオジさんでも今やることをやるしかないというのが模範解答なのでしょうが、ふと気付けばもっとしっくりくるような他の答えを探しているような気がします。皆さんはどのように歳を重ねているでしょうか?
埼京線と武蔵野線のクロスポイント、ここ武蔵浦和で話を聞かせてください。皆様のお越しをお待ちしております。
新年の挨拶が遅れて誠に申し訳ありませんでした。年末年始は体調を崩しながらも大晦日から三が日まで突貫で消尽し、4日から短い休みを取らせていただきました。
さて、新年の抱負を語る代わりに今年は法律家らしく「法令順守とは何か?」について話させていただこうと思います。
法には大きく分けて二種類あります。それは自然法と実定法です。
裁判所で裁判官と議論になることが少なくとも私には多々ありますが、そんな時に裁判官が必ずいうナンバーワンフレーズが「残念ながら法律(判例)はそうなっていない。」です。その言葉には文字通りの意味と、「もっとよく勉強してください&そんなこと言うなら国会議員にでもなって法律を変えればいいじゃないですか?」という大上段からの皮肉が含められています。
しかしながら、そう遠くない時代に「奴隷法」という法律があったのをご存知でしょうか。その時代の裁判官はある判決の中で堂々と「黒人は白人より劣った人種であるから…。」と理由づけています。だからという訳ではないですが、私は法律や判例がそうなっていると言われても直感的には、「だからなんなんですか?」と問いたくなってしまいます。ユダヤ人の大量虐殺もきちんと法律に則って行われていました。私が、「安心してください。時には法に反してでもやりますよ。」と言うと途端に青ざめる方がいらっしゃいますが、逆に私の方がその方の了見を疑いたくなってしまいます…というのは明らかに少し言いすぎでしょう。なお、先に出てきた奴隷法は「高次の法」である自然法により現代の世から消失したことは皆さんご存知の通りです。
ところで、私が法令順守っていったい何?ということを上記のような机上ではなくそれこそ実体験した話をしようと思います。それは自衛隊を退職して脚を引き摺りながら近所のイトーヨーカドーで懸命にマイバックのご協力に感謝の意を唱えていたときの話です。レジを打ち始めて二年目の夏にこういうことがあったんです。
その日は荒川の花火大会で屋上を一般開放する関係でレジ待ちのお客様が精肉鮮魚の方まで並ぶという飛んでもなく忙しい日でした。レジを打ち間違えると流れが止まり、周りのレジスターに途方もない負担を掛けてしまします。そのためいつも以上に戦々恐々としながらもうすぐ花火が始まるという午後7時を迎えようとしたその時、明らかにその界隈で一番悪そうな高校生がプレイメイトのような美女を連れて私のレジに訪れたのです。買い物かごを見ると悪そうな風体とは裏腹に甘ったるい缶酎ハイが無造作に並んでいました。ただ、それは紛れもない酒であり、未成年者に酒を売るのは法律で禁じられています。その高校生は殺気立ちながらこっちを静かに見つめプレイメイトのような美女は「何やってんの、早くしなさいよ。」とせっついて来ます。しかしながら、精肉や鮮魚まで続くお客様も同じように殺気立っており、私は大学生より高校生の方が多いと謳われた故郷である神奈川県厚木の一番街を思い出しながら、ダッカ日航機ハイジャック事件の福田首相のお株を奪う超法規的措置でその高校生に酒を売ったのです。その後、恐らく私の雑談が情報源の情報からジェダイマスターならぬチェックマスターと呼ばれるレジ打ちおばさんの親玉に大目玉を喰らったのは言うまでもありません。
時は流れて翌年の卒業シーズン、再び私の法令順守とは何か?に衝撃を与えるある出来事があったんです。ある女の子が私のレジに訪れ、アイスクリームチョコレートの銘品「ピノ」とチョーワの「酔わないウメッシュ」を持って来たのです。私は毎朝四時台に起きて間稽古を開始する極寒の板妻三曹教でアル中の先輩が「ゴリョちゃん、これ酒じゃないよね?」と聞いて来たので「そうですね。ノンアルコールって書いてありますしね。」といったら7本位一気したらしくベロベロになって点呼に廻ってきたことを思い出し、一瞬にして危機感を抱きました。同じ轍を踏まぬと私はすぐさまチェックマスターに連絡し、報告とともに指導を仰ぎましたが、チェックマスターは途端にアタフタし始め、用があるからと言ってどこかに行ってしまいました。しょうがないので私はレジを打ちました。そしたら女の子たちがヒソヒソと「ここなら大丈夫だよ。」的なことを言い始め、あっという間に私のレジにピノと酔わないウメッシュを持った少女たちの列が出来てしまったのです。恐らく少女たちの誰かがその組み合わせがハイになれることを発見し、「もうすぐ中学なんだから思い出作りに誰かの家でパァ~と盛り上がろうぜぃ、イェイ♡」とでも言ったのでしょう。それは少女たちにしか分らない、合法か非合法かで言えば合法というほかない悪事だったのです。私はそれだけにとんでもなく悪いことをしたような気持で嬉しそうにピノと酔わないウメッシュを2円掛からない透明のビニール袋に入れて帰る少女たちの後ろ姿を眺めながら「卒業おめでとう。」と呟きました。
今年もよろしくお願い致します!
年の瀬が押し迫るこの時期、毎年猛烈に楽しみにしているテレビ番組があります。
その番組は、紅白歌合戦でもなければ、ダウンタウンの笑ってはいけないでもありません。そもそもそれは大晦日の番組ではない。大晦日より少し前、12月の29日か30日に放映される、ある男達が輝かしい栄光を背負いながらも転落し最後の逆転に挑むという番組、勝てないとは知りつつ敢えて勝負に挑む男達を描いた濃密にドラマティークなドキュメンタリー番組、そろそろ名前をいいましょう。そう、「戦力外通告を受けた男たち」です。子供を背負い、近所のイトーヨーカ堂の食品レジに立ちながら司法試験のシーズンを送っていた頃から、僭越ながらも私は自分自身に重ね合わせてこの番組を観ていました。
プロ野球選手は言うまでもないことですが、もの凄い職業です。年に一度の報酬が昨年からどのくらいアップしたかが白日の下に晒され、スター選手となればそれにサインしたかしなかったかをしつこく聞かれるところまで放映されます。片や、イトーヨーカ堂の給料は毎月大体同じで上がりもしなければ下がりもしない、振り込みなのでサインするところもありません。職業に貴賤はないと言いますが双方には途方もない距離感があるところ、唯一年に一度だけグッと距離が縮まる、プロ野球選手が織姫ならば私が彦星になれる日。それが今年で言えば30日の「戦力外通告を受けた男たち」が放映されるその日なのです。
殆どのプロ野球選手はスターとして産まれてきた選ばれた人間です。甲子園で活躍してドラフトで指名され母校の英雄となる。概して背は高く、身長は175センチあっても体格に恵まれないと言われてしまう。語れば語るほど、「…ヒロシです。」になってしまう人種ですが、競う相手も同じように神様に選ばれた人間たち、そうでなくても栄光は決して永遠に続く訳ではありません。いつしか2軍生活が長くなり、怪我も重なりとうとうその日はやって来ます。一縷の望みを賭けてトライアウトに臨む。各チームのスカウト陣の熱い視線の中3打数2安打の好成績、あとは連絡を待つだけです。いつ電話が掛かってくるか分らないため外出もできず、何も知らない子供たちが無邪気に家の中で走り回っている。スポーツ新聞では次々と仲間が再就職を決めてゆくのを複雑な心境で知りながらも時間だけが過ぎて行く…。大体毎回同じような流れですが、その流れは西の初めてのお使い、東の戦力外とも言えるほど完成し尽くされています。男達は連絡が無ければもはや一生野球で勝負することが出来ない、その後はただの人として暮らしていかなければならないのです。
当時、負けが込み、というか一次試験も合格しておらず、妻からの戦力外通告に戦々恐々とする生活を送っていた私にとって大晦日前のその番組を観るのは確実に聖夜よりも大切な夜でした。家族が寝静まった夜に、いつもより上等な酒とあたりめを小脇に抱えながらテレビに噛り付いていたのです。
今年も男達のイブが近づいてきました。何とかまだマウンドに立たせてもらっていますが、今年はどんな思いで戦力外を観るのか自分でも楽しみにしています。えっ、年末はいつまで営業しているんですかって?年明け1月3日まで営業していますよ。皆様の話を聞きたいんです。たとえ夜中でも構いません。JR埼京線と武蔵野線のクロスポイント、ここ武蔵浦和で皆様のお越しをお待ちしております。
誰しもがそれぞれ、心を掻き立てられるメロディーを持っていると思います。自衛隊員にとっては、おそらくそれは消灯ラッパの哀切なメロディーであり、若しくは、観閲式で掛かる抜刀隊の調べであるやもしれません。心を掻き立てられるというより、えぐられるといった方がふさわしい。それを聞くや否や、髪の毛をつかまれて過去に引きずり込まれる。時間軸を喪失し、突然あの頃に放り込まれて我を失う。そんなメロディーを誰しも一つは持っていると思います。
11月15日の話です。11.15両国国技館で天龍が引退するというので、私は随分前からチケットを買い、その日を待ち受けていました。それでも、午前中に溜まっていた訴状を書き、午後から司法試験の講義をし、慌てて会場入りすると、既に予定されていた試合の半分が終わっていました。いいんです。私は天龍の引退試合だけ見れれば、世紀の一瞬だけ見れればそれで一向に構わない。そう思っていました。その日のトレーニングをしていないのが少し気になりましたが、世紀の一瞬に向けて、私は国技館の近くのコンビニで買い込んだ缶ビールの一本目を開けました。案の定、天龍対オカダ以外はインディーと往年のレスラーの同窓会のようなカードで、光と影、そして時の移ろいばかりが際立ち、国技館のマス席が予想以上に狭かったのもあってか私は次第に苛立ちさえ覚えるようになったのです。
「おい、そこから長州がやってくるぞ。」そう言われたのは、二本目の缶ビールを飲み干したときです。突如、会場が暗くなり、けたたましい爆音でパワーホールが流れてきたのです。その瞬間、疲労と酔いもあってか、私は消灯ラッパと抜刀隊が一気に掛ってきたような感慨に襲われました。
そもそも私がプロレスを観出したのは今から25年前、15歳の時です。世代で言えばリアルタイムで観ていたとしてもおかしくはありませんが、噛ませ犬発言や、その日引退する天龍との60分フルタイムドローを人づてでしか知らず、私が高校に上がったときは既に長州は伝説となり掛けているレスラーの一人となっていました。時は闘魂三銃士の全盛、長州は思うようにならない身体を引きずりながら、全盛だった闘魂三銃士や馳や佐々木健介に胸を貸す立ち位置にいたと記憶しています。
当時、私は青春の袋小路に迷い込んでいました。雨後の筍のように出来たニキビに戸惑い、クレアラシルが上手く乗らないと学校を休むという生活を送っていたのです。それでも部活だけは毎日行っていましたが、中学3年間のブランクは大きく、匿名でラブレターを出すような、即ち何をやっても中途半端で上手くいかない時を過ごしました。土曜日の午後の練習が終わり、ため息を付きながら恨めったらしい顔でテレビを付けると、そこにはいつもパワーホールを鳴り響かせながら入場してくる黒光りした長州の姿がありました。
本当にここから長州が入場してくるのだろうか?と思いながらも私は持っていた二本目の缶ビールを握り潰し、靴も履かずにマス席の横の花道に行きました。そしたら向こうから本当に長州がやって来たんです。何かに怒っているような顔でもう片方の手首を交互に触るあの仕草をしながら本当に長州がやって来たのです。私は大人の特権として過去様々なレスラーを葬ってきたその右腕を触り、少年のように「やった!長州に触ったぞ。」と友人に向かって叫びました。
その後、もちろん25年前のような試合が観れた訳ではありません。捻りの効いたバックドロップから拷問のような蠍固め、ギブアップ寸前になったところを敢えてそれをさせずに「立て、コラァ」と叫びながら首が捥げると思わんばかりのリキラリアットでスリーカウントを奪うという長州の必殺フルコースは既にもう25年前に衰えを見せていたのです。というより、パワーホールが鳴り響き、長州の右腕を触った後からの記憶が全くないのです。セカンドロープに足を掛け、コーナーに佇む長州の厚い背中を見ていた私は、自衛隊を経て弁護士になった今の私ではなく、ただ雨後の筍のように出来たニキビに戸惑い、人生を恨みながらプロレスを観ていたあの頃の私であったのかもしれません。
私だけ喋っています。皆さんの話も聞かせてください。夜中でも構いません。JR埼京線と武蔵野線のクロスポイント、ここ武蔵浦和で皆様のお越しをお待ちしております。
最近観た映画の話です。映画「チャイナタウン」は、私が生まれた1975年に日本公開されたジャックニコルソン主演のハリウッド映画です。ストーリーは1930年代後半のロサンゼルスを舞台に私立探偵が偶然にも関わってしまった殺人事件を通じ、誰にも変えられない運命の綾に踊らされる女性の姿を描いた作品であります。私立探偵といえば優しくなければ…生きていけないで有名なフィリップマーロウが活躍するレイモンドチャンドラーの作品群を思い出しますが、この作品はハードボイルドなタッチに加え憂鬱で退廃的な雰囲気と水道利権の争いという社会的な視点も織り交ぜ、残酷な現実と不条理を見事に表現し切ったマスターピースとなっております。
題名のチャイナタウンから、ミッキーロークの「チャイニーズオブドラゴン」が如くチャイナマフィアの血で血を洗う抗争が描写されている映画と思ったら大間違いで、中国人街が出てくるのはラストの7分だけです。それまではJ・ニコルソンの気の遠くなるような捜査の様子が延々と続きます。チャイナタウンとは、主演の私立探偵が警官だった時に仲間たちが口々に言っていた言葉、「何もしない方がいい。」に由来し、ラストのJ・ニコルソンの台詞「ここは怠け者の街だ。」に代弁されるものです。つまり、チャイナタウンのように言語や人間関係が複雑な街では犯罪を防止しようとすることが逆に犯罪を助長し保護することになってしまうことが多く、更にそれが命取りになるため、かえって「何もしない方がいい。」ということになってしまうのです。
私が初めてこの映画を観たのは、中学校の頃です。丁度レンタルビデオ屋が雨後の筍のように街に出来始めた頃に、観ようと思っていた新作映画が全部貸し出し中だったためにしょうがなく名作のコーナーから借りて観た覚えがあります。男には疲れ果てた時もう一度観たくなる映画というものがあり、その映画が私にとって、少なくとも今は「チャイナタウン」だったのかもしれません。
翻って、皆さんは弁護士に対してどのようなイメージがあるでしょうか?私は、弁護士になるまで弁護士が自由と独立の象徴のような存在だという印象が強くありました。しかし、今となってはそうでもないみたいだと思っています。弁護士は建前上自由ですが、強制加入団体である弁護士会による懲戒制度というものがあり、この懲戒のハードルがどんどん下がってきているため皆それに戦々恐々としているというのが実状です。懲戒には資格剥奪、除名、業務停止や戒告というのがありますが、最後の戒告というものが曲者でちょっとしたことでも品格を欠いたと言われ簡単に戒告されてします。戒告でも弁護士全員に配られる「自由と正義」という雑誌に名前が載ってしまうため、名前が載った弁護士はホーソンの緋文字のようにある種の烙印を押される⇒弁護士が三度の飯より好きな弁護士同士の噂の種にされてしまう⇒弁護士の世界での社会的信用を喪う⇒仕事が来なくなるというホントか嘘か分らないが噂レベルでは歴然としてとしてそこにあるベルトコンベアーに乗ってしまうのです。「あっ、それ懲戒喰らうよ。」が弁護士の間の隠語としての強大なプロトコルとなっています。
そのため、依頼者のために一肌脱ごうとしているとき、無意識に焼き付いた「あ、それ懲戒喰らうよ。」というプロトコルの響きは巨大な足枷となって彼らの動きをはたと止めます。依頼者としてなんでこんな簡単なことをやっくてれないのだろう…と思う時があると思いますが、その理由は懲戒という仲間内の吊し上げを喰らいたくないという大人ならぬ弁護士の事情が介在しているのです。依頼者のために一肌脱いだ弁護士はその依頼者からは感謝されるかもしれませんが、不条理にもほぼ確実に懲戒を喰らいます。結局「何もしない方がいい。」とでも言わんばかりに。そのような実情を見るにつけ、私はチャイナタウンのラストでJ・ニコルソンが呟いた「ここは怠け者の街だ。」という台詞を不意に思い出してしまうのです。
お前は懲戒にビビってないのか?とよく周りの弁護士に聞かれます。私は必ずこう言います。「弁護士は闘争業さ。それに、一番いけないのは恐怖自体を怖れることだよ。」と。それは私がマッチョであるからではありません。怖いということが許されない職業に就いていた男の痩せ我慢なのです。やれることは限られていますが、ただ全力でやるだけです。そう思っています。
夕暮れからトレーニングに行きます。今日はフルレンジのスクワットを一回も挙がらなくなるまでやるつもりでいます。皆さんの話も聞かせてください。夜中でも構いません。JR埼京線と武蔵野線のクロスポイント、ここ武蔵浦和で皆様のお越しをお待ちしております。
昔は弱く、今は強くなったという話をしようとしているのでありません。そのとき私は大学の6回生、大田区馬込で2年目の新聞奨学生をしていました。
陸上自衛隊への入隊を決めたのはいいものの、実際自衛隊でどんな訓練をするのかは全く分かっていません。配達は全て駆け足で行い、夕刊はカブではなく自転車での配達、大学の講義は必ず出て昼寝は絶対にしないなど、自分なりに心身を鍛えその準備をしていたものの、高校を卒業したばかりの若鮎のような者たちとしのぎを削って一緒に訓練をするまでの自信は到底ありませんでした。
桜が散り、夏が近づくとその不安は現実のものとなって行き、その現実のものとなった不安が、24歳になろうとしている社会に出る若者としては老境に差し掛かった私を徐々に支配して行きました。私はまるでゴッサムシティに降臨する前の蝙蝠に怯える幼少期のバットマンのように、内なる恐怖と闘う日々を送っていたのでした。何とかしなければと思い身体を鍛えるためのトレーニング場を探すと、寮のある馬込からは大田区立体育館が一番近いことが判明しました。もう夏が終わりかけ、夜に台風が来る予定だったが夕方にそれが過ぎ去り、この世の終わりのように紅い夕焼けを見た日の夜、私は新聞屋のカブで大田区立体育館に向かいました。
その頃の大田区立体育館は昭和50年にアントニオ猪木が新日本プロレスを旗揚げしたそのままのもので、トレーニング場も中二階にバーベルとダンベルが雑然と並べられてあるだけで最新式のマシーンなどある訳もない、薄暗くて古臭い埃の匂いがする掘っ立て小屋のような体育館でした。挨拶代わり、冗談交じりで「ふくらはぎを鍛えるマシーンはありますか?」と新聞屋のジャンバーを着たまま管理人らしき人に尋ねると、その管理人は「ん?」と言ったまま何も答えずただただ私の方を見ています。辺りを見渡すと、健康のために軽く汗を流すような人が一人もいません。唸り声を出してバーベルを挙げ下げする大男や、一見普通のサラリーマンだが「…ダメだ。もうダメだぁ!」と叫びながらも一向にスクワット辞めようとしない人、お互いの腕を紐でくくってアームレスリングの練習をしているYAZAWA系現役不良中年二人組、その管理人自身も筋肉が発達し過ぎて手足の区別がつかない豆タンクの様な体型をしており、ここが公共施設とはとてもじゃないが信じることが出来ない異様な空間がそこにはありました。後でわかったことですが、その管理人は国士舘大学の柔道部出身、重量挙げの世界選手権を3連覇している方で、何かを尋ねると必ず大きな目をひん剝いて「ん?」と言う癖が強い人だったのです。器具の扱いマナーには五月蠅く、真夏の海でいい思いしてやろうぜ!的な輩には特に五月蠅く、結局真摯なトレーニーしか残らないというもはや区民体育館でなく道場に近い空間になっていたのでした。明朝の配達があるため軽く鍛えて上がろうと考えていた私に管理人は「枝を鍛えても枝だけ太くなることはない、幹を鍛えなさい。」と諭し、私は新聞を配るときの格好のままベンチプレス台に乗せられることとなりました。今考えると豪華なことですが、その管理人は兎に角、補助につくのが好きでした。ベンチプレスの補助につかれると超至近距離で管理人の股間を見ることになります。今では何も思いませんが、その時は恥ずかしくて男性経験がない少女のように目をギュッと強く瞑っていたことをよく覚えています。
配達に支障が出てはいけないと当初は週に2回くらいと考えていましたが、管理人は二日来ないと「しばらく来なかったが、体調でも悪かったのかい?」と言ってきます。途中からスクワットもさせられることになるんですが、週に5回はベンチプレスをしていたように思います。自衛隊の訓練と言えども3桁、つまり100キロ持ち上げればそれに太刀打ちできるだろうという根拠のない淡水魚の様な希望が、入隊への漠然とした恐怖を打ち消しました。訓練の目的の一つとして、恐怖という動物的な反射を矯正して感じないようにすることというのがあります。ベンチプレスをやり込むことで私は入隊前、既に訓練というものを始めていたのかもしれません。
夏から始めたベンチプレス、目標としていた100キロは年明けに達成することが出来ました。近所の肉屋で鳥のささみを大量に買い込み、それを茹でて寝る前にプロテインドリンクで流し込むという食事を続け、体重もあっという間に10キロ以上増えました。そして、その年の3月末にベンチプレス115キロ、体重70キロと言う肉体で横須賀の武山駐屯地の衛門を潜ったのです。
ベンチプレスを100キロ持ち上げることで入隊への恐怖がなくなったかという質問の答えはイエスでもあり、ノーでもあります。現に入隊日、バスが駐屯地に近づくと「そんなに要る?」と誰もが思う夥しい数の鉄棒がまるでオブジェのように誰もいない衛庭に並べられているのが見えて、まだ習っていない回れ右をしそうになったことは紛れもない事実でした。
繰り返しますが、昔は弱くて今は強くなったという話をしているのではありません。あの時私は、自衛隊と言う未知で巨大な存在に恐れと戦きを感じ、それを乗り越えようと日々もがいていたのです。その結果に得たものが、わずか八か月でマックスを二倍にした重量のベンチプレスを持ちあげたことであり、入隊直後大浴場で若鮎のような隊員たちを騒然とさせた胸筋だったのです。入隊後の前期訓練で私は若鮎のような奴らと真っ向勝負をして体力1級徽章を授与され、その後の精強の途を辿ることになります。食の細い哲学青年だった1年前では、全く考えられないことでした。
当たり前の話ですが、今でもまだ何かに恐れや戦きを抱くことはあります。しかし、あの頃のように急き立てられるように鉄の重りを挙げ下げし、これを辞めたら自分がバラバラになってしまうのではないかと言う存在自体の恐怖や戦慄を感じることはありません。ホッとする反面でどこかやけに年老いた気持ちになるということが正直なところです。
皆さんの話も聞かせて下さい。夜中でも構いません。JR埼京線と武蔵野線のクロスポイント武蔵浦和で貴方をお待ちしております。
自衛隊を退職して近所のイトーヨーカ堂でレジを打ち始めた頃の話です。当時の私は択一式試験と言う司法試験の第一関門を三回連続で落ちており、退職金も底をつきかけ、しかも子持ちで人生の黄色信号が灯り始めた青年と言うには無理がある34歳の男でした。
ところで、閉店前のレジ締め業務は防犯上二人一組で決められたルートを辿って出納係の待つ部屋まで行きます。従業員用のドアを潜り薄暗い通路を歩いていると、一緒に歩いていた大学生の女の子から「すみません、答えたくなかったら答えなくてもいいです。一つだけ聞いていいですか?」と言われました。何でも聞いて下さいと言うとその女子大生がこう言ったのです。「いま何歳なんですか?」と。実年齢でいいんですよね?と一応確認を入れた上で本当の年齢を告げたのですが、その後彼女が私に何かを尋ねることはありませんでした。
その女子大生とは別の従業員で、A子さんと言う人がいました。彼女は私の教育係だったのですが、代謝不能で嫌だったのが、彼女がお客様の前でいちいち私を指導することでした。
自衛隊では何か指導する必要があったとき上官はその隊員の後輩がいる前で指導をすることはありません。おそらくトップダウンの指揮系統を維持するためでしょうが、湯気が出るほど怒っている上官でも一応その隊員の下の隊員が傍にいた場合には何処かよそへ連れ出すか、その下の隊員をよそへ行かせてから指導を入れます。これはかなり徹底された不文律であり、私もほんの一度だけ後輩の前で指導を入れられたことがありましたが、その後すぐ「下の前で指導してすまなかったな。」と何度も謝られた記憶があります。そのせいか、私はその教育係がお客様の前で私を指導することに普通の従業員が感じるよりも遥かに強烈な違和感を抱いていたのです。とはいえ、間違いなくイトーヨーカ堂は自衛隊ではなく、その自衛隊を辞めた上で自らの意思でイトーヨーカ堂に入ってレジ操作を性懲りもない程ミスしていたのは自分なので私が彼女に何かを抗議することはありませんでした。
四時間以上もレジに立ち続けるのは歩くと膝がコキコキ鳴っていた当時の私にはかなりこたえるものでした。何より尊大な自尊心をトマトのような額に掲げた女子大生が返す言葉もなくなる34歳と言う年齢で、男として何の尊厳も感じることなく自動販売機みたいにレジに立っていなければならない自分の現状に激しく苛立ち、まっすぐに家に帰ることは出来ませんでした。暗記をしながら近所の公園で一回も挙がらなくなるまで懸垂をしてからやっと家に帰るという作業を強いられたのです。
今はない近所の曽根というリカーショップが1時に閉まってしまうため、その時間までには暗記と懸垂を切り上げる必要がありました。いつものように、その頃からあったがすぐに消えてなくなると思っていたサントリーの金麦500mlを1本買って家に帰る途中、ふと「おぎゃあ、おぎゃあ。」と赤ん坊の泣く声が聞こえました。「あぁ赤ちゃんが泣いてるな。」と思った途端涙が出そうになりましたが、34歳はもう涙を流してはならない年齢です。涙は若い人間の特権かもしれません。感情を堪えながらさらに家に向かって歩いていると、その赤ちゃんの泣き声は次第に大きくなっていきました。アパートの入り口を潜っても赤ちゃんの泣き声は聞こえます。赤ちゃんのいる家族はアパートで私の世帯だけでしたので、慌てて階段を駆け上がり家の玄関を開けると爆睡した奥さんの横で私の長男が猛烈に泣いていました(笑)。
よく思い出す私の原風景です。皆さんの原風景を教えて下さい。夜中でも構いません。
それでは、埼京線と武蔵野線のクロスポイント武蔵浦和で皆様のお越しをお待ちしております。
SEALDsとは、自由で民主的な日本を守るための緊急のアクション、担い手が10代から20代前半の若い世代が思考し行動する集団と定義付けられています。
SEALDsはマルクスレーニン主義云々の議論はしないでしょうから全共闘の亡霊が出てきたという訳ではありませんが、私たち団塊Jr.のように市民の政治参加という意識がなかった時代に学生生活を終えた者からすれば、全共闘世代に対してそう思うのと同様の羨望を感じるときがあります。「あっ、言ってなかったっけ。オレSEALDsなんだ。」みたいなことを彼らが言うか言わないか判りませんが、政治活動に青春を捧げる学生が再登場したことに驚きと称賛と共に多少の嫉妬が入り混じったセンシティブな感情を抱いている団塊Jr.は決して私だけではないと思います。因みに、東大の樺美智子さんが機動隊と衝突して死亡した日にデモ隊の学生が痴漢で逮捕されたそうです。ノーベル文学賞受賞者の大江健三郎が彼を称して「その指先に実存を集中させたというその意味で、彼は真の実存主義者かもしれない。」と書きましたが、実存主義と聞くとどうしても痴漢で捕まったデモ隊の学生を思い浮かべてしまうのは恐らく私だけでしょう。
ところで、SEALDsの学生たちは憲法9条がどのような条文なのか理解しているのでしょうか?決して偉そうなことを言おうとしているわけではありません。憲法9条に関する設問は司法試験では、刑法の執行猶予と肩を並べてその問題が出ると解かずに次に進む受験者が半分以上いる「捨て問」となることで有名です。簡単な問題を解いても難しい問題を解いても同じ1点であるため、解かずに適当にマークして次に進むことが受験政策上有益となる場合があり、それが「捨て問」と呼ばれるのですが、私は元自衛官として意地でも正答していました。元自衛官としてどうして憲法9条の問題に固執していたのか今では不明であり、毎回かなり骨が折れたという記憶しかありません。そのせいか、駅前で憲法9条と叫ぶ人達をみると条件反射的にギョっとしてしまいます。恐ろしいことに、私が所属している埼玉弁護士会は左の聖地さいたま宜しく殆どの弁護士が左であるため、かなりの頻度で憲法9条関係のFAXが送られてきます。強制加入団体なのに政治活動していいのでしょうか…。思想信条の自由を保障している憲法19条に反しないのでしょうか?と元最高裁長官に問い合わせたいのですが、お世話になった方も含め偉い弁護士の殆どが左であるため、私はただただギョっとするだけです。
話を元に戻してすぐに終わるんですが、政治が老人のものと思い込みノンポリの代表世代を決め込んでいた私の学生時代では考えられない新しいムーヴメントがSEALDsによって巻き起こされています。沈黙を打ち破ってやろうぜぃ!と、言葉にできない思いを叫び続ける若者を応援したい気持ちは左も右も関係がありません。
SEALDsの皆さん、頑張ってください。SEALDsに真の実存主義者がいるかどうか私は判りませんが、機動隊に逮捕されたらすぐレンジャーに御連絡を!JR埼京線とJR武蔵野線のクロスポイント武蔵浦和駅から駆け付けさせて頂きます。
養育費とは、未成熟児が社会的自立をするまでに必要とされる費用のことです。この養育費は親が子供を育てる費用とみなされているため、受け取った養育費の所有権はあくまでも子供のものです(民法752条)。そのため子供の親権を父親が勝ち獲った場合であっても父親は母親に養育費を要求することが出来ます。
最新の全国母子世帯等調査によれば、離婚後現に養育費を受け取っていると答えた監護者は5人に1人しかいません。父子家庭に関しては20人に1人しか母親から養育費を受け取っておらず、この数字は欧米に比べて極端に低い数字であります。
その理由として私が考えることは、同様に先進国の中で極端に低い面会交流の疎遠さにあります。実際に家庭裁判所で父親の代理人として活動するとすぐにわかることですが、裁判所は月1回2時間以上父親を子供に会わせようとはしません。これを世の中がそうなっているという意味での「相場」と考えれば、それに従わなければならないのでしょうが、生まれつき物分かりが悪い私は調停員に噛みついてでもその相場に追従することはありません。そもそも、月1回2時間という相場は全く法的な根拠がないものです。裁判所がそれ以上責任を取れない、つまり苦情を言われるのが嫌であるか、調停員が勝手に信じている男は育児が無理だという虚妄、或いはお得意の事なかれ主義のいずれであることは間違いないので、あくまで弁護士としての品格を喪わない程度にギャンギャン吠えると次第に相場の枠が壊れて行きます。この話題は共同養育実現に向けて日夜の草の根運動を繰り広げている私のメインテーマなので折に触れて話していきたいと思いますが、本日の本題は養育費です。メインテーマと聞いて、薬師丸ひろ子の~メインテーマ~を口ずさみ始めた方も気を取り直して聞いて下さるようお願い致します。
離婚の全体の1割と言われる調停離婚で離婚をした場合、必ず養育費に関する条項を結ぶことになりますが、条項を結んでもその後3年以上その養育費の支払がなされている割合はせいぜい5人に1人いるかいないかということです。その理由は定かではないですが、いちいち名作映画カサブランカのように愛し合って別れるカップルは極々少なく、二十歳の薬師丸ひろ子のように傷つく感じが素敵という理由で別れる夫婦は恐らく全くと言っていいほどいないと思うので、当然嫌いな人とはお金の連絡をするのも嫌という即物的生理的な理由が介在することは間違いないでしょう。
ところで、皆さん養育費の時効って何年かご存知でしょうか。養育費支払い請求権は「年又はこれより短い時期によって定めた金銭を目的とする債権」として五年の消滅時効が定められています(民法169条)。これが短いか長いかは個々人の受け取り方ですが、例えば7年前に子一人につき月額3万、子二人が監護者に支払われる条項が結ばれたのにもかかわらずこれが払われていないという状況の場合、監護者は非監護親に少なくとも5年分の360万円を請求することが出来ることになります。しかもこの債権、通常の債権が四分の一のところ、何と二分の一も給料債権に差押えが掛けられます(民事執行法152条3項、151条1項3号)。さらにさらに、仮に破産しても債権が免責されず、地獄の果てまで追いかけてくるという執拗さも兼ね備えています(破産法253条1項3号ハ)。
私は離婚を経験したお客様には必ず養育費だけはキチンと支払いましょうと言わせて頂いておりますが、大抵皆さん「だって子供に会えないのにどうしてお金だけ払わなきゃならないの?」と仰られます。子供に会わせないことを裏で手助けする家庭裁判所が悪いとは口が裂けても言いませんが、そう仰られるのも無理はありません。ただ、冒頭で申した通り、養育費は親から子に支払うものです。たとえ会えないとしても、人の親として最低限出来ることはすべきです。親権は取れなかったけど自分は親としてお金だけは払っていた。その歴然とした事実が貴方を救ってくれる瞬間が必ずある。その逆は地獄だ、と信じてやまないのです。
他方で、養育費を請求していない監護親に対しては必ず請求するように言わせて頂いております。「実の親なのに養育費も送ってくれなかった。私は親から見捨てられたんだ。」という喪失感はその後の人生で簡単に昇華されうるものではありません。
皆さん、眠っている養育費はありませんか?請求することで救われることがあるなんて素敵だとは思わないでしょうか。そう思った方は私に連絡をして下さい。JR武蔵野線と埼京線のクロスポイント、武蔵浦和駅で貴方の到来をお持ちしております。